山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

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第484回

2020.03.06

 写真は、お雛さまの嫁入り道具として作られた「雛道具(ひなどうぐ)」です。この雛道具は、大名家の婚礼道具を模して作られた、たいへん精巧で豪華なものです。

 

大名家にとって婚礼は、家と家の結びつきを強める、重要な行事でしたから、その婚礼道具も、この雛道具のように、一般の庶民とは隔絶した数・質がそろえられました。

 

江戸時代になると、藩の体制も整い、大名の子たちは、生まれると同時に詳細な記録が作られるようになりますので、生母や名前、生年月日はほぼわかります。

 

しかし、戦乱が絶えず、権力も弱体であった戦国期以前は、大名や有力領主といえども、年少者のことを詳細に記録する習慣はなかったようです。毛利元就の嫡男隆元は、生年・生母こそわかっていますが、生まれた月日や幼名はわかっていません。隆元が生まれた大永三年(一五二三)は、元就が毛利家の家督を継ぎ、本拠の郡山城に入った年でした。元就の家督相続には、反感を持つ重臣も多かったらしく、渡辺氏などは、尼子氏を頼って、その阻止を図ったようです。その後元就は、こうした反対勢力の粛清に、その前半生を費やしました。これはまさに血みどろの戦いだったらしく、幼子の記録をとる余裕などなかったのかもしれません。

 

元就の嫡男ですらこのありさまですから、女性に関する記録は、ほとんどありません。

生年月日はもちろん、正式な名前すらわからないことがほとんどです。たとえば、元就の妻は「妙玖(みょうきゅう)」という、死後の法名しかわかっていません。

 

戦国時代の大名や有力領主にとって、女性はまさに両家同盟のかすがいでした。彼女らの働きによって、両家の決定的な対立が避けられた事例は、数限りなくあります。

 

働きに比して少ない記録が、彼女たちの実情を明らかにすることを妨げているのです。