山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

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第487回

2020.03.27

 写真は、『栄花物語』の一場面、藤原道長の妻倫子(りんし)還暦の祝いを描いた「舞楽図(ぶがくず)」です。天皇に嫁いだ三人の娘を産み、娘の産んだ皇子が次々と皇位を継いだ彼女の祝儀らしく、色とりどりの衣装に身を包む人々が描かれた、華やかな絵です。

 

倫子は、宇多天皇の孫として、藤原氏を牽制しつつ、長らく朝廷の第一人者であり続けた源雅信の娘でした。倫子と、夫藤原道長との夫婦仲は睦まじかったようです。雅信の声望と財産を受け継いだ倫子が、道長と協力したことは、道長が、並み居る藤原一族を抑えて、朝廷で長らく権力を独占できた背景の一つとして、高く評価されています。

 

道長のように、配偶者との縁で、生涯の成否が決まる例は、歴史上多く見られます。

 

毛利氏の場合、鎌倉幕府の重鎮として活躍していた、大江広元の四男毛利季光(すえみつ)は、宝治合戦で北条時頼と敵対し、滅ぼされました。たまたま遠く離れた越後(新潟県)に在国し、乱に無関係であったことから、季光の四男経光は有罪とされず、毛利氏自体は存続できました。しかし、毛利氏の地位は低下し、そのままであれば、地方の一豪族として歴史に埋没していたかもしれません。

 

毛利氏が復権を果たしたのは、経光の四男時親の時代でした。時親は六波羅(ろくはら)評定衆に抜擢され、京都・畿内で長く活動したようです。

 

河合正治氏によると、妻に北条氏の有力な家人、長崎泰綱の娘を迎えたことが、時親復権のきっかけだったとされます。時親の父経光もまた、時親に毛利氏の将来を見出したのか、惣領職こそ長男に譲りますが、越後国の本拠佐橋荘の半分と、安芸国吉田荘を時親に譲り渡しました。期待に応えた時親が、西国の将来性を見越し、一族の吉田移住を進め、安芸毛利氏の祖となったことは、よく知られているところです。