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第486回

2020.03.20

 写真は、「貝合(かいあわせ)」に用いる「合貝(あわせがい)」です。貝は、そもそもの対でないと合わせられないことから、新婦が嫁ぎ先を変えることはない、という意志を示すものとして、江戸時代の大名家の婚礼道具のなかでも、最も重視されていました。

 

この合貝は、天保十年(一八三九)に、支藩徳山藩の毛利元蕃(もとみつ)に嫁いだ、長州(萩)藩の十代藩主毛利斉煕(なりひろ)の五女八重姫(やえひめ)の婚礼道具です。

 

田中誠二氏によると、側室の子として生まれた八重姫は、天保初めごろ(一八三〇年代前半)には、生母とともに、斉煕の居所であった江戸の葛飾邸で暮らしていたようです。

 

葛飾邸は、隠居斉煕の居屋敷(いやしき)とされ、斉煕の正室三津姫(みつひめ)も同居していました。八重姫は、公式には、三津姫が生んだ姫として幕府に届けられました。これは、当時の習わしに従ったものと思われますが、将来、名門毛利家の姫として、どこかの大名や公家に嫁ぐことを想定してのことだったのでしょう。

 

当時の葛飾邸には、八重姫のほか、万寿姫(ますひめ)・安喜姫(あきひめ)ら、生母を同じくする姫たちが同居していました。三津姫は、鳥取藩主池田家より嫁いだ、名門大名家の出身でしたから、姫たちの「母」として、大名家の姫としての作法や心得を、直接彼女らに伝授していたのだと思われます。

 

実父の斉煕や、その跡を継いだ十一代藩主毛利斉元・十二代斉広(なりとお)が相次いで死去したため、八重姫の婚礼は延期されていました。財政難を理由に婚礼をさらに延期しようとする重臣に対して、婚礼の挙行を強く主張したのは、三津姫でした。斉煕の死後も、毛利家の奥向きを束ねていた三津姫としては、財政難であれ、予定通り婚礼を行うことこそ姫の幸せと、毛利家発展のためになると信じていたのでしょう。