山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

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第483回

2020.02.28

 写真は、松村景文が描いた「立雛図(たちびなず)」です。立雛とは、古い雛人形の形式で、文字どおり立ち姿の素朴な姿をとどめた人形です。

 

日本では、古くから身代わりとなる人形(ひとがた)に災いや穢れを移し、人形ごと川などの水に流す風習がありました。こうした風習が雛祭りの源流の一つだそうです。

 

今でも各地の水辺で、雛人形を川に流す行事がありますが、それは、こうした風習の名残なのでしょう。もちろん、穢れや災いを流すだけでなく、日本の人々にとって、川は生活と密着したものでした。

 

中世、各地の領主や大名たちは戦争に明け暮れていましたので、多くは街道を整備する余裕を持ちませんでした。まして、山が険しく、森もうっそうとした日本の地形では、広々とした街道が自然に作られるはずもなく、自然に流れる川が、物資の運搬や人の移動などの重要な径路とされていました。

 

戦国時代、中国地方に覇を唱えた毛利氏の本拠は吉田荘(よしだのしょう、広島県安芸高田市)でした。ここは、中国地方一の大河江の川に注ぎ、中国山地を貫流して山陰側の日本海に注ぐ可愛川(えのがわ)と、南に流れ、太田川と合流して山陽側の瀬戸内海に注ぐ三篠川(みささがわ)が、荘内を流れる、いわゆる分水嶺に位置する荘園でした。

 

元就の時代になると毛利氏は、この両河川に沿って次第に勢力を延ばし、やがては中国地方全域に勢力を持つ大大名に成長します。そのせいか、元就の存在ばかりに光が当てられます。しかし、元就以前に、東国の拠点を手放してでも、西国の、しかも陰陽交通の要となる吉田荘に、拠点となる郡山城を築き、絶えざる努力で地道に勢力を扶植した室町時代の毛利氏歴代の存在なくして、一代の英雄毛利元就が生まれることはなかったのです。