山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

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第481回

2020.02.14

 写真は、雛人形の段飾りの一部「楽人(がくじん)人形」です。一般には「五人囃子(ばやし)」なのですが、この人形は能楽の謡(うたい)ではなく、雅楽を演奏する様子を模していますので、楽人と呼ぶのだそうです。

 

 最上段の雛人形を「お内裏(だいり)さま」と呼ぶように、雛人形は、その多くが、宮廷を模して作られています。これは、『源氏物語』や『伊勢物語』、和歌などの宮廷文化が、江戸時代に入ると、公家(くげ)だけでなく、武家、さらには庶民にも広がるにつれて、宮廷文化への憧れが、世間一般に増した影響だとされています。

 

 事実、江戸時代中期以降、近衛家と島津家、三条家と山内家など、名だたる大大名は、京都の名門公家との結びつきを強めるようになります。毛利家でも、七代藩主重就(しげたか)の時代、娘を鷹司輔平(たかつかさすけひら)に嫁がせ、血縁を深めています。

 

 輔平は、閑院宮(かんいんのみや)家の出身で、光格天皇の叔父にあたることから、いわゆる「尊号一件」でも重要な役割を果たした人物として知られています。毛利家伝来の資料にも、しばしばその名が現れ、毛利家との仲も親密だったようです。重就としては、輔平という最有力公家との結びつきにより、当時「規模(きぼ)」と呼ばれた家の格を上げ、どちらかといえば、文芸など、文化面での交流を求めていたように思われます。

 

 しかし、幕末には、孝明天皇の意を奉じた、輔平の曾孫輔煕(すけひろ)が、兵庫開港に備えて密かに京都守衛を命じた「戊午密勅(ぼごのみっちょく)」を、重就の曾孫敬親(たかちか)に下す役割を果たしています。

 

 緊迫した政局の下で、にわかにきな臭い関係に転じた両者の間柄は、禁門の変でも長州藩が鷹司邸を拠点にするなど、長州藩没落の局面までは、かなり密接だったようです。