山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

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第480回

2020.02.07

写真は「洛中洛外図(らくちゅうらくがいず)屏風」の一部です。洛中洛外図とは、都の内外の風景を、さまざまな名所紹介を交えながら描いた風俗画の一種です。この屏風に関しては、作者も制作年代も不明ですが、絵の内容から、十六世紀初頭の京都を描いた元絵に沿って、江戸時代後半に描かれただろうと考えられています。

 

戦国時代の京都は、天皇と将軍が居を構え、日本の中心として栄えていました。軍記物や小説・ドラマの類では、各地で覇を競ったとされる戦国諸侯も、京都に上り、天下に号令することを夢見ていたとされます。

 

現在では、こうした単純な天下取りの物語は完全に否定されています。しかし、戦国大名と京都との関係には、一言では表せない複雑なものがありました。

 

将軍足利義輝(よしてる)は、各地で争う戦国大名を仲裁し、幕府の再建に協力させようとしました。そこで、中国・九州で争っていた毛利氏と尼子(あまご)氏、毛利氏と大友氏の和睦を目指して使者を派遣したのです。

 

しかし毛利氏の当主隆元は、石見銀山の領有や、中国山地内陸部の諸領主の動向を考えて、尼子氏との共存は無理と判断していました。大友氏に対しても同様に、博多の支配や大内氏の遺領を巡って、共存は難しいと考えていました。

 

そのため隆元は、他国からのそしりを受けたとしても「上意を背候ても、家をかゝハり候ハては不叶事候」と、上意に背いてでも家を守る、と決意を固め、将軍の和平勧告を拒絶したのです。結局、将軍との交渉に長けた大友宗麟(そうりん)が攻勢を強めたことや、尼子氏との両面戦争を避けるため、大友氏との和睦だけは受け入れますが、将軍の命よりも、自らの家が重要と言い切るあたりが、戦国大名毛利氏の真骨頂といえるでしょう。