山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

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第479回

2020.01.31

 写真は、毛利敬親が自ら作ったとされる萩焼の茶碗です。敬親は幕末に長州(萩)藩を率いた藩主ですが、この茶碗は、桃色の釉薬がかけられ、全体に貫入と呼ばれる小さな孔が見られる、現代の作品を思わせるような出来栄えのものです。

 

萩焼は、豊臣秀吉の命によって朝鮮に派兵した毛利輝元が、朝鮮半島から連れ帰った陶工が始めた焼き物として知られています。関ヶ原合戦の後、毛利氏が防長両国(山口県)に移ると、その子孫たちも防長に移住し、長門国内の松本(萩市)・深川(長門市)の二か所で作陶が続けられたといいます。

 

談林派の俳諧師松江重頼が記した『毛吹草』に、「萩焼物」の記述がありますから、すでに十七世紀後半には、上方辺りでは、萩の名産として認知されていたといいます。

 

実際、参勤交代では、多くの萩焼を贈答用に持参したようです。おそらく、茶陶としての萩焼は、藩主毛利氏の庇護があって、早くから天下に知られるようになったのでしょう。

 

一方、「麻布邸」と呼ばれた、長州藩下屋敷跡(東京都港区)の発掘調査では、萩焼はほとんど出土しなかったといいます。田中誠二氏によると、文久二年(一八六二)に参勤交代制が緩和されると、長州藩では、藩主正室の都美姫(とみひめ)や後継者である世子元徳夫妻の帰国に伴い、穴蔵銀と呼ばれた備蓄銀や、御殿などの構造物も撤去したそうですから、茶陶としての萩焼も、国元にすべて持ち帰られたのかもしれません。

 

しかし、生活雑器としての萩焼も発掘されませんでした。割れた茶碗などをまとめて処分した痕跡も見いだせなかったようです。禁門の変後、長州処分の一環として、江戸の各藩邸は幕府に接収され、この麻布邸も更地にされたそうです。そうした事情もあるのか、萩焼が生活のどの場面で、どのように使われていたのかは、今も謎のままのようです。