山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

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第478回

2020.01.24

 写真は、江戸時代の南画家谷文晁(たにぶんちょう)が描いた「四季耕作図屏風」の一部です。この「四季耕作図」は春の田植えから秋の稲刈りを経て、正月の風景に至る農村の一年を描いた作品です。この場面は、一家総出の田植えの様子を描いた部分です。

 

一面に水を張った田に、青々とした早苗を植え付ける作業風景は、まさに「瑞穗(みずほ)」の国とよばれる、日本の原風景にふさわしいものでしょう。

 

ところで、天正十年(一五八二)京都の本能寺で織田信長が明智光秀に討たれた時、中国地方では、信長の部将羽柴秀吉が、備中高松城(岡山市)を「水攻め」にしていました。この水攻めは、湿地に作られた堅城である高松城を攻めあぐねた秀吉が、付近を流れる足守川をせき止めて行ったようです。

 

この場を決戦の地と考えた毛利氏は、総大将の輝元、小早川隆景・吉川元春の「両川」以下諸国衆など、当時集められた最大限の兵力約一万で、高松城の救援に向かいましたが、秀吉勢の堅い攻城策の前に打つ手をなくしていたことは、よく知られています。

 

この時期、高松城のような湿地帯に作られた城は多くありました。毛利氏が防長攻略の要と考えた須々万の沼城(周南市)も、その名のとおり湿地に作られた城だったようです。また、秀吉に寝返り、毛利氏を窮地に陥れた宇喜多氏は、元々の本拠は、吉井川下流の「沼城」でしたし、その名字も「浮田」と湿田を想像させるものです。

 

毛利氏が中国地方に覇を唱えた十六世紀後半、各地に湿田が多く残されていました。こうした湿田は、江戸時代を通じて、近世の大名権力と、その下で生活を営んでいた民衆たちが、血のにじむような努力を尽くし、莫大な労力をつぎ込んで、この屏風に描かれるような、青々とした田に替えたのだということを忘れてはならないのです。