山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

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第477回

2020.01.17

 写真は、江戸時代の南画家谷文晁(たにぶんちょう)が描いた「四季耕作図屏風」の一部です。この「四季耕作図」は春の田起こしから田植え、稲刈りを経て、この場面に至る、農村の一年を描いた作品です。この場面は、収穫を終え、新たな年を迎えた農家が、旅の猿回し一座の芸を眺める正月の様子を描いたものと思われます。

 

こうした絵は、単なる風景画・風俗画ではありません。一見のどかに見えるこの農村風景は、一年を通して懸命に耕作に励み、秋に実りの収穫を迎えると、幸せな年越しを迎えることができることを強調しています。つまり、江戸時代に広く普及した儒教道徳の下での、農民のあるべき姿を描いた、極めて政治的な、思想的な背景を持つ絵なのです。

 

この屏風は、大名である毛利家の所蔵品ですから、農民のあるべき姿を描くと同時に、領主として、こうした理想の世を作り上げなくてはならないという、戒めとしての意味も持っていたようです。

 

一方、戦国大名やそれに続く、豊臣期大名の農村支配はかなり荒いものでした。うち続くだけでなく、次第に広域化・大規模化する戦闘は、秀吉の時代に至り、ついに朝鮮半島、文字通り海外にまで及びました。戦争に動員された水主(かこ)や、武器や兵糧を運搬し、兵士の世話をする陣夫(じんぷ)は、とめどもなく漁村や農村から徴発されました。このために著しく荒廃した村々も多く、際限のない軍役は、やがて大名や豊臣政権自身の首を絞める結果となりました。

 

秀吉の死後、関ヶ原での戦いに敗北したとはいえ、毛利氏が徳川氏の覇権におとなしく従い、徳川幕府の下での一大名として生きる道を選んだ背景の一つが、こうした戦争疲れにあったことは間違いないようです。