山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

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第472回

2019.12.06

 写真は、雪舟が描いた水墨画「四季山水図」の一部です。世界的にもよく知られた絵画ですが、そもそもは防長両国(山口県)を本拠としていた守護大内氏の依頼で描かれたものだそうです。描かれた経緯や、理由については定かではありませんが、大内氏が信仰する仏神に奉納されたというのが、現在の有力な説のようです。

 

ともあれ、大内氏の滅亡という混乱にもかかわらず、これだけ健全な状態で毛利氏に引き継がれたことは、奇跡と呼ぶほかありません。しかし、この名品がいつ、どのようにして毛利氏の有に帰したかも、また謎なのです。

 

大内義長・陶晴賢の両者を滅ぼして、大内氏領国の大半を飲み込んだ毛利氏は、この領国を支配するため、義長・晴賢が打倒した大内義隆の後継者であることを強調しました。その結果、大内氏時代に保証された各種権益は、特に目立つ支障がない限り、毛利氏は追認する姿勢を示しています。大内氏の菩提寺に関する保護についても、同様でした。義隆の菩提寺龍福寺をはじめ、大内氏の菩提寺は、そのほとんどが、毛利氏時代にも引き継がれ、寺によって、厚薄の違いはありましたが、毛利氏はそれぞれの寺を保護しています。

 

こうした姿勢を大きく転換させたのは、織田信長との戦争でした。この戦争は、長引いた上に、信長の死後結ばれた和睦は、領国の削減を伴うものでした。これまでの戦いに対する、家臣団への給与に窮した毛利氏は、所領の半分を大名権力が差し押さえる「半済(はんぜい)」などと称し、大内氏の氏神氷上山の所領などを家臣に給与したのです。

 

秀吉政権への服属後は、大内氏の後継者であることを強く訴える必要性が薄れたのでしょうか、毛利氏は大内氏の遺産を保護する熱を失ったように思われます。この「四季山水図」の移転に関しても、あるいはこうした背景があったのかもしれません。