山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

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第471回

2019.11.29

 写真は、毛利元就が用いたとされる軍旗です。もとは縦に細長い幟旗だったようですが、下の部分がちぎれて失われています。上部がなめした鹿革で補強され、紐が付けられていますので、紐で竹竿に括り付けて用いたようです。

 

裂は、かなり変色していますが、もとは白く輝く綸子だったようです。厳島神社の神紋である亀甲文が、地文様として織りこまれていますので、もとは厳島神社から下された神衣を、幟に仕立て、墨で毛利家の家紋「一に三つ星」や軍神の名を記したようです。

 

当時厳島神社の社家を統轄していた棚守房顕の覚書「房顕覚書」によれば、毛利元就と房顕が、信仰の契約である師壇関係を結んだのは、郡山合戦最中の天文九年(一五四〇)のことだったようです。岸田裕之氏によれば、陶氏の仲介によって元就の信仰を得た房顕は、元就の支援を受けて、神主とともに、尼子方に通じて房顕と敵対していた社家衆を、厳島神社から排除し、厳島社家衆の頂点に立ったとされます。

 

また房顕は、管弦祭など、現在に続く祭礼の復興を目指して、元就に対し、その費用の拠出を求めました。後に「三子教訓状」で語ったように、厳島の加護により戦勝を重ね、家を発展させることができたと考えていた元就は、房顕の求めに応じて、戦国の争乱期に途絶えていた神事や社殿の復興を援助しました。

 

毛利元就・隆元父子は、陶氏との断交や厳島合戦の勝利など、節目ごとに厳島神社の加護を求め、加護に対する御礼を捧げました。その結果、毛利氏が一国人領主から戦国大名へと、身分を上昇させ、安芸国の国主としての地歩を固めていくのと、歩調を合わせるかの如く、厳島神社は平家時代の壮麗さを取り戻していきました。現在、世界遺産として我々が見ることのできる大鳥居や、海に浮かぶ壮麗な社殿は、こうして整えられたのです。