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第470回

2019.11.22

 写真は、能装束の一種「唐織(からおり)」といいます。女性や若い公達を演じるときに着るとされ、それにふさわしく、身頃ごとに地色を変え、「互(ぐ)の目」とよばれる、互い違いに配置された菊文と桐文は、一つとして同じものがない、凝った意匠です。

 

この唐織は、毛利輝元が豊臣秀吉から拝領したものといいます。具体的な証拠はありませんが、袖幅が身幅にくらべて短いなど、秀吉の時代の小袖の特徴がよく現れていることなどから、伝承はほぼ間違いないと考えられています。

 

後世になると、甲胄などには、わざわざ最初から下賜を前提に作らせるものもあったようです。しかしこの唐織は、出来栄えといい、豊臣氏を滅ぼした徳川の世になってもなお「太閤様」からの拝領品として、毛利家が大切にしてきた由来といい、詳細は不詳ながら、何か特別な由緒があるように思えてなりません。

 

よく知られているとおり、秀吉は織田信長の命により、毛利氏攻略に従事しました。最初は敵対する関係だったためか、毛利氏側では、長らく秀吉を、羽柴筑前守を省略した「羽筑」と呼び捨て、対等な関係を崩そうとはしませんでした。むしろ成り上がりの秀吉を見くびり、秀吉が示す和睦の条件をかたくなに受け入れない者も多かったようです。

 

こうした姿勢を危ぶんだのは、毛利氏と秀吉を仲介した安国寺恵瓊でした。彼は秀吉の経済力、行軍の速度や兵站など、さまざまな角度から、毛利氏との実力差を示し、秀吉への恭順を説きました。

 

内心では秀吉との再戦は無理、と考えていた輝元たちは、結局恵瓊の主張に従います。秀吉への服属後は、彼の政策を、むしろ積極的に取り入れ、自らの国づくりを進めました。この唐織は、そうした毛利氏の姿勢に報いた秀吉が、輝元に与えたものなのでしょう。