山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

お問い合わせはこちら

第468回

2019.11.08

 写真は、毛利元就の肖像画です。教科書などにもよく載せられていますので、元就といえばこの顔、といえるほど著名なものです。実際には元就の死後二十年ほどして、孫の輝元が描かせたもののようですが、しっかりとその風貌が描かれているとされます。

 

元就といえば、智謀の限りを尽くして、毛利氏を大大名にのしあがらせた、一代の英雄として知られています。軍記物やドラマなどでは、演出の都合上、あたかも元就が一人で事を成し遂げたかのように描かれます。しかし、実際には、元就の偉業は、その背後で、元就を支え続けた人々の協力なくしてはなり立ち得ませんでした。

 

元就の人生の過半を支えた人物として、忘れてならないのが、志道広良(しじひろよし)です。広良は、毛利氏の庶家坂氏の一族ですが、安芸国の志道を領有したため、志道と名乗りました。元就の兄興元の時代から、毛利氏の家政を掌り、興元・幸松丸・元就三代の執権を勤め上げた人物です。

 

元就の甥幸松丸急逝に伴い、反対する家臣を抑え、元就を次期家督とするように家臣団をまとめたのは、広良でした。広良は、元就の才能を早くから見出し、元就を歴史の表舞台へと押し出した賢臣でした。

 

また、元就の跡を継ぎ、当主になったばかりの隆元に対しては、軍役の量を家臣ごとに定めるように訴えています。当時の家臣団は、当主との親疎や実力により、例え当主が命を下しても「あれハいや、是ハいや」と訴えて応じない者が多かったのです。それでは組織としての毛利氏の運営は成り立たないと広良は考えていました。広良の提言は、有力な一門・家臣団を前に、なかなか実現されませんでした。しかし、天文十九年(一五五〇)、強勢を誇った井上一族を滅ぼしたことを機に、実現していくことになるのです。