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第467回

2019.11.01

 写真は、毛利隆元の自画像とされる肖像画です。

 

隆元は、元就の長男として大永三年(一五二三)に生まれました。記録の豊富な毛利家には珍しく、生まれた日は伝えられていません。また、幼年時の名前もわかっていません。

 

奇しくもこの年は、元就が、早世した甥の幸松丸の跡を継ぎ、家督を継承して郡山城に入った年でした。元就の家督継承は、元就の母方の従兄弟福原広俊と、毛利宗家の家政を仕切っていた執権の志道広良が、有力家臣井上氏の協力を得て実現させたようです。

 

当時の毛利宗家家臣団は、一枚岩ではありませんでした。重臣渡辺氏は、出雲尼子氏の重臣亀井秀綱に働きかけて、元就の家督相続に反対したようです。このとき、尼子氏が渡辺氏に加担したため、元就は尼子氏に不信を抱き、大内氏の陣営に走ったのです。

 

古い記録では、隆元には姉が一人いたようです。この子は、わずか二歳で、北隣の有力者高橋氏に差し出されました。関連する資料が全くないため、何ともいえないのですが、これはいわゆる人質だった可能性が高いように思われます。

 

元就の兄興元は、高橋氏の娘を妻に迎えていましたから、高橋氏と毛利氏は縁戚でした。しかし、興元と母を同じくする次男で、高橋氏と並ぶ、安芸国内の有力者吉川氏の娘を妻に迎えた元就のことを、警戒したのでしょうか。

 

このように、隆元が生まれたころ、元就は、家の内外に敵を抱え、とても不安定な立場でした。元就はこの後、渡辺氏や桂氏など、敵対した重臣を討ち果たしています。さらには、高橋氏が尼子氏に寝返ったことを理由に、大内氏の支援を受けて、高橋氏を滅ぼしました。これらは、記録が乏しく定かではありませんが、かなり激しい抗争だったのでしょう、幼年の隆元の記録が全くないのも、こうした事情も背景にあるようです。