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第466回

2019.10.25

 写真は、毛利元就が長男隆元・次男元春・三男隆景、三人の子息に与えた自筆の書状です。一般には「三子教訓状」と呼ばれ、三本の矢の伝説のもととされた、著名なものです。

 

この手紙の中で元就は、自らのことを、「健気者」でも「胴骨者」でも、ましてや智恵才覚が人に勝っていたり、人並み外れて仏神の加護を得た人物ではないといいます。それにもかかわらず、家督を継いでからの約四十年、有為転変を「不思儀」に「すべりぬけ」て、五か国を有する大名にのし上がった、と述べています。

 

この書状は、息子たちの油断と慢心を戒め、三兄弟が一致協力して「毛利」の家を守ることを訴えたものです。したがって、元就の表現が、果たして本心かは検討の余地があります。しかし、自身に才覚のないことに関しては、元就が再々述べていますから、ある程度は本心だったのでしょう。

 

軍記物や小説に描かれる元就は、見方にもよりますが、深謀遠慮、時には謀略も駆使するような智将として、あるいは油断のできない狡猾な武将として描かれます。しかし、実際には、家督の継承さえ、兄と甥の早世という偶然の産物でした。家督継承後の四十年弱は、そのほとんどが、隣接する大名権力である大内氏や尼子氏の動向に翻弄されつつ、彼らの動向を見極め、毛利家を守り抜くため、合戦や調略にあけくれる毎日でした。

 

大内氏を滅ぼしたとはいえ、それは、元就にとって必然ではなく、まさに「不思儀」な巡り合わせで「すべりぬけた」に過ぎなかったのです。五か国の太守とはいえ、一つ舵取りを誤ると、一挙に領国を失い、家の滅亡につながる、と元就は考えていたようです。しかし、最も期待していた三人の息子たちでさえ、元就の気持ちは伝わっていませんでした。その焦りと苛立ちが、この長い手紙を書かせる原動力だったのです。