山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

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第465回

2019.10.18

 写真の水差は、明治三年(一八七〇)十月二日、毛利敬親が朝廷から拝領した文庫に納められた、ふくさ・文珍・印籠などの用具一式の一つです。

 

この日敬親は、明治天皇から勅書を下され、未だ安定しない新政府のため「諸藩ノ標準ト成」ることを命じられています。

 

既に敬親は、隠居の身でしたから、この勅書は、天皇が敬親をいかに信頼していたかを示すもの、とみてまちがいないでしょう。

 

敬親はこの年五月、三田尻を発して、海路兵庫・横浜を経由して、六月二日に東京に到着しています。翌年三月に敬親は死去しますから、この上京は、敬親にとって、天皇が移り住み、江戸から名を改めた「東京」への上京としては、最初で最後のことになりました。

 

明治二年(一八六九)末から、この年はじめにかけて、長州(山口)藩では、戊辰の各戦争に従軍した諸隊のうち、精選に洩れ、元の暮らしに戻れと命じられた者たちが蜂起し、議事館など藩の諸施設を襲う「脱隊騒動」が発生していました。この争乱は、事態を重く見た木戸孝允らの判断で、政府に差し出した常備兵を一時帰国させるなど、徹底して弾圧したため、五月はじめには、いちおう沈静したようです。

 

敬親の上京は、騒動鎮圧の直後になされました。これ以降、各藩でも士族反乱、農民一揆などが続発しますが、この脱隊騒動は、そのさきがけともみなされ、その対応いかんでは、木戸らのめざす維新改革そのものが、頓挫しかねない事件でした。

 

こうした点を考慮するならば、隠居し、しかも体調が優れなかった敬親が、わざわざ上京し、天皇から勅書と文庫を与えられたことは、長州藩に対する新政府の信頼が、この騒動後もなお揺らがないことを、内外に示す重要な意味を持っていたように思われるのです。