山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

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第461回

2019.09.20

 写真の刀は、慶応四年(一八六八)二月十二日に、参内した毛利元徳が、朝廷から与えられた刀です。握る部分である茎(なかご)の銘文は「陸奥守藤原兼信」、江戸時代の作ではありますが、かなりの長寸で、なかなかに見所の多い刀です。

 

前年の慶応三年(一八六七)、大政奉還後の政権運営を巡り、朝廷内部は混迷していましたが、十二月八日、岩倉具視や薩摩藩など急進倒幕派が中心となり、幕府に諸政を委ねるこれまでのあり方をやめ、天皇が親政を行う「王政復古」を宣言しました。続いて行われた会議で、芸州(広島)藩は、長州(萩)藩の罪を許し、官位官職を復旧させるように願い出ました。現在毛利博物館に残されている「官位復旧沙汰書」の包紙に記された墨書によると、十二月九日にこの奏請は承認され、沙汰書を受け取った毛利内匠が、桂太郎に命じて沙汰書を山口に届けさせたそうです。

 

藩主毛利敬親・元徳父子の復権は、薩長同盟の内容の中でも最重要の項目の一つでしたし、長州藩が芸州藩に深く期待していたことの一つでもありましたから、芸州藩は、長州藩との約定を誠実に果たしたものと思われます。

 

藩主父子の復権に関する知らせを受け取った山口では、朝政に復帰するため、藩主毛利敬親に代わって、後継者である世子(せいし)の元徳が、翌慶応四年(一八六八)正月、山口を発して京都に向かいました。そして、二月十二日、約五年ぶりに参内を果たした元徳に、朝廷が与えた糸巻太刀(いとまきのたち)の刀身が、この兼信なのです。

 

敬親の上京は、少し遅れますが、既にこの時、敬親の体調があまりよくなかったのでしょうか、この後新政府が、戊辰戦争に勝利してその基盤を固めるのを見届けると同時に、敬親は、朝廷に隠居を願い出、家督を元徳に譲ろうとするのです。