山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

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第464回

2019.10.11

 写真は、明治二年(一八六九)六月、長州(山口)藩主毛利元徳(もとのり)を山口藩知事に任命した辞令です。

 

ここには「山口藩知事」と明記されています。それまでの新政府からの書類には「長州」あるいは「長州藩」などと記されていますから、「山口藩」の呼称は、この知藩事の辞令の時、おそらく初めて正式な名称として採用されたと思われます。

 

一般に江戸時代は「幕藩体制」と呼ばれ、幕府と諸藩が全国を統治する体制と説明されます。本来の「藩」は、古代中国において王や皇帝から所領を与えられた諸侯を指し、「藩屏」など、皇帝を支える意味で使用されます。日本では、江戸時代の儒学者が、将軍から知行を与えられた大名のことを、中国の諸侯になぞらえ、藩と呼んでいたにすぎません。

 

江戸時代の大名が、将軍徳川氏との関わりを基準に、親藩・譜代・外様と、大まかに区分されるのは、よく知られています。このうち外様は、関ヶ原以降徳川氏に従った大名とされ、関ヶ原で徳川氏に敗れた毛利氏や上杉氏・島津氏などが、代表とされます。

 

毛利氏の場合、遅くとも、徳川氏が征夷大将軍として、武家の棟梁に任じられると、当主の輝元は、家康・秀忠父子を「御所様」と呼び、彼らを日本全国を統治する公権力として認め、主従関係においては、防長二国を与えてくれた主君と認めるようになりました。

 

しかし一方で、毛利氏が自らの力で大名として自立し、戦国大名や豊臣政権下の大名としては、家康とも対等であったという意識は、毛利氏にとって大切な記憶とされました。毛利氏の大名としての出自は、その後江戸時代を通じ、困難を乗り越えるため、度々再確認されます。そして、幕末維新の政局が混迷を増すと、藩主たちは毛利氏の歴史を声高に唱え、朝廷への忠節と、倒幕を正当化する根拠として強調したようです。