山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

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第463回

2019.10.04

 写真は、明治二年(一八六九)正月に、長州(山口)藩主毛利敬親らに下された、版籍奉還に関する行政官の「沙汰書」、すなわち朝廷からの命令書です。

 

薩長土肥四藩の藩主が、自らが支配する領地である「版」と人民「籍」を、朝廷に返還したいと願い出たことに対して、朝廷は、受理はするものの、「会議」を経て、「公論」をつくした上で回答すると伝えています。

 

諸藩の代表者が集まる会議を経て、公論をつくしてからでなくては、倒幕を主導した四藩主連名の申し入れといえども、朝廷が単独で決断できなかったことは注目されます。薩長など武力倒幕派の諸大名は、幕府の専制を非難し、「公論」の実現を標榜して倒幕を実現したため、新政府といえども、この方針に従わざるを得なかったようです。

 

この後自由民権運動などは、新政府を「有司専制」「藩閥」などと批判します。藩閥をわかりやすく説明するとき「薩長土肥」と表現しますが、この沙汰書は、版籍奉還の上申が、薩長土肥四藩の主導によってなされたことをよく示す史料として知られています。

 

薩長両藩は、通商条約の締結以降、政局を動かし、武力倒幕に最も貢献したことがよく知られています。土佐(高知)藩もまた、三条家の縁戚であることを活かして中央への進出を果たすと、大政奉還の助言など、幕末政局での活動が知られています。

 

肥前(佐賀)藩もまた、明治初年の財政を担った大隈重信や、司法改革を実施した江藤新平など、「有司」を輩出しました。ただ、この藩は代々長崎警備を担ってきたためか、幕末期の中央政局にはほとんど姿を見せないように思われます。反射炉の築造や、大砲鋳造など、この藩にまつわる話は多く見られますが、この藩の軍事力を支えた経済基盤や、どのように中央へ人材を送り込んだのか、はっきりしないように思われるのです。