山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

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第459回

2019.09.06

 写真は、幕末の長州(萩)藩主毛利敬親の「具足」です。紺糸を用いて、黒漆の部分を多く表に出した、質実剛健なもので、いかにも動乱の時代に作られた一品です。

 

紆余曲折を経て、思いがけず倒幕を実現した敬親でしたが、明治二年(一八六九)一月、薩摩・土佐・肥前三藩主と連名で、版籍奉還の願いを朝廷に提出しました。版籍奉還とは、各大名の持つ封土と領民を、朝廷に返還するもので、来たるべき中央集権国家建設のための第一歩とされるものでした。

 

この願いは、最終的に受理され、その間に隠居した敬親に代わって、嗣子の元徳が新たに地方官とされた知藩事に任命されます。この事業により、形式上は、江戸時代二百数十年にわたった毛利氏による防長支配は終わりを告げたのです。

 

毛利敬親は、先代藩主毛利斉広(なりとお)が急死したため、天保八年(一八三七)に急遽家を継いだ人物でした。この家督相続は、藩主となって初めての国入りの際、自らを「部屋住」と表現し、先代藩主からの「御直伝」もなく家を継いだと、当人にとっても全くもって思いがけない出来事だったようです。

 

敬親自身は藩政のなかで、萩を襲った水害を、自らの不徳に対する先祖毛利元就の怒り、と述べ、朝廷に忠節を尽くす理由を、毛利家が平城天皇の後胤であることと訴え、家臣にも「国家」、一言で言えば、長州藩と毛利家に忠節を尽くすように求めています。

 

こうした敬親の言動は、江戸時代によく見られるもので、家の存続と発展とを至上の価値とする江戸時代のごく一般的な考え方でした。伝統的な価値観に縛られ、しかも思いがけず長州藩・毛利家を継いだ敬親にとって、近代化のため必要なこととはいえ、先祖代々受け継いだ領国を自ら返上する版籍奉還は、酷な政策であったように思われてなりません。