山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

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第458回

2019.08.30

 写真は、萩を流れる阿武川の支流松本川の放水路として、安政二年(一八五五)長州(萩)藩が作った「姥倉(うばくら)運河」の絵です。

 

この絵が描かれたのは、明治時代と思われます。沿岸には蔵が建ち並び、北前船とおぼしき帆船が行き交う様子が描かれています。長州藩は当初から、阿武川の洪水から萩城下町を守るとともに、運河としての機能を活かして、日本海航路を行き来する商船を呼び込む腹づもりだったようですから、その構想が実現したのでしょうか。

 

毛利氏が、日本海側の萩に居城を定めたことに対して、長らく幕府の押しつけとする説が流布してきました。これは、江戸時代半ば以降、新田開発や塩田・綿作などの発展により、瀬戸内側が著しく経済的な発展を遂げたことに対して、日本海側が経済的に停滞した、という考え方に基づくものと思われます。

 

しかし、この絵にもあるように、北海の産物を西日本に送ることや、反対に西日本の産物を北陸・東北に送る重要な航路として、日本海は古くから交通の大動脈として機能していました。戦国時代に伊勢参詣を試みた島津家久は、帰路山陰の海路を利用していますが、温泉津や浜田(ともに島根県)では、薩摩ゆかりの人物と多数交流するなど、山陰には薩摩や松浦あたりからの商船が多く寄港していたようです。

 

家久は、浜田からそのまま平戸へと船を進めたため、萩などの記述はありません。当時の萩は、石見国屈指の有力領主であった吉見氏の所領でした。吉見氏の本拠は津和野でしたが、萩は正頼・広頼二代にわたって隠居の地とされるほど重要な土地でした。

 

こうした点から鑑みても、毛利氏がなぜ萩を選んだのか、については、さまざまな視点からきちんと検討し直す必要があるのです。