山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

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第457回

2019.08.23

写真は、長州(萩)藩の領域を描いた「萩藩領図屏風」の一部です。領国の西端豊浦郡を描いたものですが、現在の下関市に含まれる吉田と小月から先、長府や下関は描かれていません。それは、豊浦郡の大部分が、江戸時代をつうじて、分家の長府領として、萩本藩とは異なる、独自の支配が行われてきましたので、そのせいと考えられています。

 

長府藩の初代毛利秀元は、毛利元就の四男元清の長男でしたが、一時は宗家の後継者とされたこともありました。宗家の当主輝元に、嫡男秀就が誕生したため、秀元は後継者の地位を辞退しますが、輝元は、豊臣政権の口添えもあり、秀元に長門一国ほかの所領を与えて厚遇することにしました。

 

津和野に代々本拠を構えながら、長門にも所領をもち、萩に隠居していた吉見広頼に輝元は、石見分の役は毛利宗家に、長門分の役は秀元に果たすよう伝えています。これは、長門に、すでに所領をもつ家臣たちがいたため、混乱を防ぐための措置だったようです。

 

吉見氏の場合、関ヶ原合戦後の混乱で、秀元との関係は解消しますが、一方で、関ヶ原合戦後も秀元との関係が続いた家臣もいたようです。天正年間の惣国検地において、出雲から長門へ所領を移された三澤氏は、関ヶ原合戦後も秀元に属したらしく、子孫は長府藩士として代々存続しました。

 

本来は、国衆と呼ばれる、出雲国の有力在地領主であった三澤氏は、山内氏や佐波氏などと同様、本来であれば、萩本藩において、寄組あたりの上級家臣団に位置したはずです。備中守護家の一族であった細川氏など、長府藩士の家系には、本来秀元と同格の、家臣であるはずのない家がかなりあります。こうした人々がなぜ長府藩士として定着したのか、興味深いところですが、まだよくわかっていないことも多いようです。