山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

お問い合わせはこちら

第456回

2019.08.09

 写真は、毛利就隆の「上知目録」です。上知とは、所領などを主君に返却することの意味で、これは、元和七年(一六二一)に、下松(のち徳山)藩主であった毛利就隆が、兄で長州(萩)藩主であった毛利秀就に、所領の交換を求めた時のものです。

 

関ヶ原の敗戦により、所領を大幅に削られた毛利氏でしたが、多くの家臣は毛利氏に付き従ったため、彼らに与えなくてはならない所領が多くなり、藩の直轄地である蔵入地(くらいりち)は、決して多くありませんでした。

 

台所事情の苦しかった藩主秀就にとって、弟とはいえ就隆に与えることができる所領には限りがありました。しかし、就隆を、秀就と交代で江戸の将軍の下に出仕させ、秀就が定期的に帰国して政務を執ることができるように願った、二人の父輝元の強い意向によって、就隆には、下松を中心とした所領約三万石が、新たに分け与えられたのです。

 

苦心の末ようやく確定した就隆領でしたが、就隆はこれを不満として、末武(現下松市)などと、福川(現周南市)や富海(現防府市)などとの交換を求めたのです。田中誠二氏によれば、このときの交換は、それに先立つ長州藩の厳しい検地により、税収の落ち込んだ土地を放棄し、高い税収が見込める土地を要求したものだということです。

 

兄とはいえ、主君から与えられた所領の交換を求めること、まして今回の経緯を考慮するならば、就隆の主張は、わがままとしか言い様のないものでした。しかも就隆は、自らの意向が認められない場合、江戸詰を拒否すると、輝元・秀就父子を困惑させていました。

 

ただ本来、主従関係とは、主君が与える「御恩」と、家臣が果たす「奉公」が、釣り合わなくてはならない双務性の強い契約でした。この点からすれば、就隆の主張にも一理はあるのですが、財政基盤の弱い長州藩にとって、就隆の要求はいかにも無体なものでした。