山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

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第454回

2019.07.26

 写真は、明治時代半ばに描かれた錦絵です。画中の具足櫃に「長門中将具足」と記され、各種道具箱には、毛利家の家紋が描かれていますから、幕末の長州(萩)藩主毛利敬親の大名行列、それも東海道沿いに品川から江戸に入る様子を思い描いたものなのでしょう。

 

江戸時代、将軍から所領を与えられた大名や旗本たちは、交代で江戸に詰める参勤交代の制度が義務づけられていました。

 

戦国時代にも「在山口」といい、毛利元就の嫡男隆元が、主君大内義隆の下に出仕した事例があります。一般には「人質」とも呼ばれますが、この時の滞在日記を読む限りでは、隆元は義隆に歓待され、山口で能や犬追物を見物したり、大内氏の菩提寺など神社仏閣に参詣し、同じく安芸国(広島県)から出仕していた天野隆綱らとも親交を深めていますので、どちらかといえば、主君義隆との絆を深める側面が大きかったようです。

 

「いざ鎌倉」という言葉に示されるように、主従関係を結んだ主君の下に駆けつけ、直接の奉公を遂げることは、臣従する御家人にとって当たり前の課役の一つでした。しかし、江戸幕府体制が安定する以前の「在○○」は、直面する政治課題の深刻さ加減や、主従関係の深い浅いにより、期間も対象も、それどころか、する・しないさえ千差万別でした。

 

こうした「在江戸」の奉公を、「参勤交代」として制度化したのは、三代将軍徳川家光でした。家光は、諸大名を原則として二年一勤、つまり一年おきに国元と江戸を往復させることにしました。さらには、正室と嫡男である世子を江戸に常住させることにし、当初は、有力家臣の子弟も「証人」として江戸に詰めさせる体制を作り上げたのです。

 

行列の人数や径路は、時により変わりますが、参勤交代は、最も重要な課役として幕末まで連綿と続けられ、江戸時代の社会・経済に大きな影響を与えたとされるのです。