山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

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第453回

2019.07.19

 写真は、長州(萩)藩の初代藩主毛利秀就(ひでなり)所用の具足です。兜の上にそびえる銀の頭立(ずだて)が特徴的ですが、思いのほか軽く作られています。その他の部位は、無駄な装飾はなく、実戦向きの作りです。江戸時代の作とはいえ、いまだ戦国の余塵を感じさせる一品だといえます。

 

秀就が生きた十七世紀前半は、甲冑だけではなく、すべてが戦国時代から江戸時代への過渡期でした。関ヶ原の敗戦により、領国をわずか二か国に減らされた毛利氏でしたが、防長には多くの家臣が付き従いました。彼らに多くの所領を与えざるを得ず、藩運営のために必要な直轄地である蔵入地(くらいりち)は十分とはいえませんでした。

 

しかし、本来秀就を支える立場であるはずの弟就隆は、自らが家を立てるための所領を要求し、秀就の頭を悩ませました。それどころか、父の輝元まで、自らの隠居領と直臣への給領を、秀就に工面するよう求めるありさまでした。

 

当主の権力が脆弱だった戦国時代、年若い当主にとって、経験と実績ある隠居の後見は、当主権力の安定にとって必須でした。輝元を補佐した隠居元就は、隠居領の大切さを切々と訴えています。当主に対しても自立的で、反抗する家臣を押さえ込むために、隠居はそれなりの武力を持つ必要がある、というのです。そして、その武力である隠居の直臣を養うためにも、隠居は、ある程度まとまった隠居領を持つ必要があるというのです。

 

秀就の時代、さすがに秀就の地位を脅かすほどの家臣や一門がいたとは思えません。しかし、必ずしも当主に従順な家臣ばかりではなく、場合によってはそれらを武力で討ち取る必要がありました。輝元が隠居領を要求したのは、こうした戦国時代的な家臣がまだまだ多くいたという、この時代ならではの背景を念頭に置く必要があるのです。