山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

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第452回

2019.07.12

 写真は、長州(萩)藩の領域を描いた「萩藩領図屏風」の一部です。この屏風は、六曲半双のものですが、領国の西端豊浦郡と、東端玖珂郡の大部分は描かれていません。この両郡は、そのほとんどが、江戸時代をつうじて、分家の長府領と岩国領として、萩本藩とは異なる、独自の支配が行われてきましたので、そのせいと考えられています。

 

 写真は、萩本藩の西端にあたる吉田(下関市)近辺を描いたものです。慶長五年(一六〇〇)関ヶ原合戦後に、防長に移された毛利氏は、一族の毛利秀元を、領国西境の長府に配置しました。これは、領国防衛の一方の要である関門海峡を固める措置でした。これより先、秀元は、毛利輝元の養子として、一時ではありましたが、後継者と目されていました。秀元による家督継承は、輝元に実子秀就が生まれたため、実現しませんでしたが、その後、秀元には長門一国が割き与えられるなど、他の一族よりも引き立てられたようです。

 

 秀元の父元清は、毛利元就の四男でしたが、元就の孫で毛利氏の家督を継いだ輝元より、わずかに二年早く生まれたばかりの、同じ世代でした。備中国の猿懸城を拠点として与えられ、織田氏との児島をめぐる争いなどで活躍し、頭角を現したようです。

 

 豊臣秀吉への服属後、毛利氏の権力を強化するために行った広島築城や、惣国検地では、安国寺恵瓊とともに、これらの事業を統括する立場を務め、輝元からは叔父の吉川元春・小早川隆景の、いわゆる「両川」の後を継ぐ人材として期待されていたようです。

 

 しかし、慶長年間に入ると体調を崩し、輝元を不安にさせましたが、ついに慶長二年(一五九七)七月、四十七歳で死去しました。それより先、六月には、小早川隆景も急死し、輝元はわずか二か月の間に、支えの存在を二人も失いました。こうした中枢の混乱が、関ヶ原合戦における輝元の判断に、少なからぬ影響を与えたことは、想像に難くありません。