山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

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第451回

2019.07.05

 写真は、長州(萩)藩の領域を描いた「萩藩領図屏風」の一部です。この屏風は、六曲半双のものですが、領国の西端豊浦郡と、東端玖珂郡の大部分は描かれていません。この両郡は、そのほとんどが、江戸時代をつうじて、分家の長府領と岩国領として、萩本藩とは異なる、独自の支配が行われてきましたので、そのせいと考えられています。

 

 写真は、萩本藩の東端にあたる高森(岩国市)近辺を描いたものです。慶長五年(一六〇〇)関ヶ原合戦後に、防長に移された毛利氏は、最初に、毛利秀元を領国西境の長府、吉川広家を領国東、安芸国との国境にあたる岩国に配置しました。これは、領国防衛の要たる東西国境を固める措置だったようです。毛利輝元は、つねづね広家を、「両川」と呼ばれた、叔父吉川元春・小早川隆景の後継者と目して、頼りにしていました。

 

 関ヶ原合戦の直後こそ、やや関係はぎくしゃくしたようですが、すぐに打ち解け、再び毛利家存続のため、両者は協力するようになりました。その後も輝元は広家を重用し、広家の嫡子広正には、自らの娘を嫁がせ、吉川氏との縁を深めようとしています。輝元の跡を継いだ秀就もまた、吉川氏を自らの支えとすべく、寛永十一年(一六三四)に将軍徳川家光が上洛した折をとらえて、吉川広正を、毛利秀元同様の大名として扱うよう、幕府に願い出ました。しかし、それは幕府によって却下され、以後吉川氏は、大名としての扱いを受けた長府毛利氏・徳山毛利氏よりも格下に位置づけられるようになります。

 

 田中誠二氏によると、この時の決定は、広正に将軍への直奉公の実績が無かったためといいます。幕府の決定は、将軍から見た格付けでしかなく、萩本藩は、引き続き吉川氏の岩国支配の独自性を尊重し続けました。ただこの時、大名としての処遇を得ることができなかった吉川氏の立場は、他の支藩主にくらべて曖昧にならざるを得なかったようです。