山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

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第450回

2019.06.28

 写真は、将軍徳川秀忠が、長州(萩)藩主毛利秀就に与えた「領知判物(りょうちはんもつ)」です。「領知判物」とは、所領や領民の支配権である大名の「領知」権を、主君である将軍が認める書類のことで、正式な書類であることの証として、将軍が花押(判)を据えていることから、「判物」といいます。

 

 この領知判物は、元和三年(一六一七)に出されたものです。前年、実権を握っていた大御所徳川家康が亡くなったことで、名実ともに、天下人として全権を掌握した二代将軍秀忠が、自らの覇権を諸大名にはっきりと示すため、諸大名の領知権を、秀忠の名で改めて承認し直したのです。

 

 書面には、この時初めて周防・長門両国合わせて、三六万九四一一石と石高が明記されました。関ヶ原合戦直後、徳川家康が毛利輝元・秀就父子に与えた起請文には、国名は記されていましたが、石高までは記されていませんでした。戦後の混乱の中で出されたため、そこまで細かく定めることはせず、秀吉時代の石高が踏襲されたようです。

 

 防長移封後行われた検地に基づき、新たな石高が決められたようです。石高は、大名としての家格や軍役を決める基準となるため、把握した生産力をそのまま表示するわけではなく、幕府と藩との交渉によって、適切な石高が設定されました。田中誠二氏によると、元の百万石近くを目指す考え方もあったようですが、現実的な数字として、隣国広島の福島正則が増加させた石高に、比率を合わせた結果、三六万石余に抑えられたそうです。

 

 この判物には、この時の数値がそのまま反映されました。結果として、以後この石高が、長州藩の表高として定着します。長州藩と幕府との関係は、こうして一つずつ定められ、徳川幕府下の大名としての地位が、確固たるものにされていったのです。