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第449回

2019.06.21

 写真は、毛利輝元が、豊臣秀吉から与えられた陣羽織です。背に桐紋が大きく切りつけられ、緞子の裾はスカートのようです。袖の細かなひだは、南蛮の影響を強くにおわせ、秀吉の好みが大いに反映されているとされます。

 

 拝領の理由も、経緯も不明です。ただ、年代的に秀吉時代の作に相違ないこと、毛利家が伝承を偽る必要性がないことから、秀吉からの拝領品で間違いないと考えられています。

 

 天正十年(一五八二)六月、本能寺の変で織田信長が横死したことにより、急遽休戦した毛利氏と秀吉でしたが、その後の交渉は必ずしも順調だったわけではありません。秀吉の覇権が確かなものではないとみた毛利氏は、賤ヶ岳の戦いでは、秀吉の好敵手であった柴田勝家との連携も考えて動いていました。また、小牧長久手の戦いでは、秀吉背後の攪乱を狙った徳川家康から、毛利氏への秋波も寄せられていました。しかし、いずれの戦いにも秀吉が勝利を収めたことから、毛利氏は、大幅に秀吉に譲歩する形で国境を画定させ、続く四国攻めでは、秀吉の同盟者として伊予(愛媛県)の攻略に協力したのです。

 

 毛利氏に対し、秀吉が天下人として命令を発するようになったのは、四国攻略の間に、秀吉が関白になってからのことでした。天正十四年(一五八六)四月、九州攻めを考えていた秀吉は、毛利輝元に対し、領国支配のための法である「置目」を定めるように命じています。この時の命令は、同時に拠点となる城の強化と、そうでない城からの「下城」、海陸関所の撤廃、兵員徴発や兵糧備蓄などの戦争準備、九州諸将からの人質徴収、九州へ至る道の整備、秀吉の御座所造作など、多岐にわたるものでした。これらの命令を、着実にこなし、九州制圧に貢献した毛利氏は、豊臣政権を支える大名として、秀吉から重用されるようになりました。この陣羽織はその経緯を今に伝える一品なのです。