山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

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第448回

2019.06.14

 写真は、豊臣秀吉が毛利輝元に与えた「知行宛行状(あてがいじょう)」です。知行宛行状とは、主君が家臣に知行を与える文書のことです。これは、秀吉が直接花押を据えていますので、「領知判物(はんもつ)」ともいいますが、天正十九年(一五九一)三月十三日に、秀吉が輝元に安芸国以下百十二万石の領有を認めたものです。

 

 天正十年(一五八二)六月、本能寺の変で織田信長が急死したことにより、備中高松城で対峙していた秀吉と毛利氏は、和睦しました。急遽上方に引き返した秀吉が、明智光秀を討ち、信長の後継者になることはよく知られています。

 

 この間の、毛利氏との関係は、休戦、もしくは停戦と呼ぶべきものでした。そこで秀吉は、信長の弔いをすませると、毛利氏に対して伯耆国東半分と、備中国の川辺川(高梁川)以東の地を手放すことを求めました。国境線を画定させる「国分け」により、紛争の火種を絶つためでしたが、当初毛利氏は、これに激しく反対します。というのも、秀吉が割譲を命じた地域には、児島や美作諸城など、今なお毛利氏方の拠点が残っていたからです。

 

 約六年にわたる攻防は、一進一退の激戦で、秀吉方と毛利方の勢力は、随所で入り組み、複雑な様相を呈していました。秀吉の攻勢にもかかわらず、頑強に抵抗し、毛利方に留まったこれら在地領主たちに、毛利氏としては、先祖伝来の所領や、一所懸命の思いで確保した拠点を、無条件で手放せとは言えなかったのです。

 

 同時に、これらの拠点は、この戦争で新たに秀吉方となった宇喜多氏たちにとっては、自らの安定的な所領支配のため、何としても手中に収めておきたい場所でした。秀吉としても、毛利氏との再戦を覚悟の上で、国境線を画定させる必要があったのです。結局、秀吉の強大な国力の前に、毛利氏が屈し、大幅に譲歩することで国境が画定するのです。