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第447回

2019.06.07

 写真は、長州(萩)藩の「初代」藩主とされる、毛利秀就の肖像画です。秀就は、毛利元就の孫として、生まれながらの戦国大名として育てられた輝元の嫡男として生まれ、大大名毛利家の後継者として早くから期待されていました。

 

 輝元としては、豊臣秀吉の生前に拝謁させ、秀就の地位を盤石のものにしたかったようですが、あまりに早く秀吉が死んだため、果たすことができませんでした。秀就が初めて大坂に上ったのは、秀吉死去の翌年、慶長四年(一五九九)、秀就四歳の時でした。

 

 大坂城で、秀吉の子豊臣秀頼に拝謁した秀就は、その場で元服を果たします。わずか四歳にもかかわらず、秀頼から一字を与えられて秀就と名乗るとともに、いきなり従五位下の位を与えられ、すぐさま従四位下に昇進、侍従に任じられています。

 

 これらは、父である輝元の意向に沿ったものと思われますが、すでに徳川家康の動向を危惧していた豊臣政権が、徳川氏に対抗できる勢力として、毛利氏に期待を懸けていたためとも思われます。

 

 その後毛利氏は、慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原の戦いで西軍の総帥となったため、その責任を負う形で、防長両国を除く領国をすべて失いました。この結果「輝元は隠居し、秀就もまた、わずか五歳でありながら、人質として江戸に赴いた」とされています。

 

 秀就の「在江戸」が解かれたのは、慶長十六年(一六一一)のことです。この間、伏見、あるいは領国にて藩政再建に努めていたのは、父の輝元でした。その後もしばらく、輝元は、家臣への知行宛行(あてがい)、加冠・官途授与など、領国支配の根幹に関わる支配権は持ち続けます。この間の事情は省略しますが、名実ともに当主としての役割を果たしていた輝元が、なぜ「隠居」したとされるのか、詳しく検討する必要があるようです。