山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

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第446回

2019.05.31

写真は、徳川家康が毛利輝元・秀就父子に渡した起請文(きしょうもん)です。起請文とは、誓約内容を記した文のあとに、自らが信仰する神仏にかけてそれを誓い、もし破った場合には神罰を蒙るという文言を加える形式の誓約書です。

 

この起請文は、罰文とよばれる神仏への起請部分を、牛玉宝印(ごおうほういん)とよばれる、神仏の護符の裏に記しています。この書式は、当時「宝印を翻す」といい、契約の形式として最高のものと意識されていたようです。

 

毛利元就の七男である毛利元政は、宗家の当主である輝元に差し出す起請文のなかで、熊野宝印が手に入らないため、別の護符で代用すると、わざわざ記しています。一般に西日本では、熊野信仰を広めるため全国に展開していた熊野御師の布教により、熊野宝印に対する信仰が強かったとされます。元政の釈明からは、当時の毛利氏領国で、熊野牛玉に対する信頼が際立っていたことがよくわかります。

 

写真の起請文は、徳川家康が毛利輝元父子に対して、防長両国を与えること、父子の生命を保証すること、今後つまらない噂話などを耳にした場合は直接話し合うこと、を誓ったものです。これは、関ヶ原合戦において敵対した毛利・徳川両家和睦の最終条件として、家康が輝元に提示し、輝元もまたそれを受け容れたため、毛利家の文書として残されたものと思われます。

 

文言が丁寧にもかかわらず、宛所を家康の署判より下げるなど、問題としなくてはならないことは多くあります。しかし、少なくとも、家康が熊野宝印を用いたことに関しては、徳川氏として、この合戦に関して、ここに記された条件でけりをつけたいと、本心から考えていると、毛利氏に誠意をもって示そうとしたことはまちがいありません。