山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

お問い合わせはこちら

第445回

2019.05.24

写真は、豊臣秀吉の蔵刀を管理していた本阿弥光徳が、毛利輝元の求めに応じて作った「刀絵図」です。

 

秀吉の刀のうち、特に名刀とされた六〇余振を、押型とよばれる紙に写し取り、特徴や見所を、光徳自ら記しています。

 

刀は、護身という点で、最も身近な武器であり、古代社会では天皇の軍権を象徴するものとして、出征する将軍に下げ渡されるなど、武士にとっては、まさに「魂」とよぶべきものだったようです。輝元の時代にも、太刀は最上級の贈答品とされ、同盟の確認や、主従関係の維持強化など、さまざまな場面で、頻繁に贈答されていたようです。

 

ただ、秀吉や秀吉配下の諸将の刀剣熱は、室町以来の伝統をひく毛利家の面々とはやや異なり、尋常ならざるものだったようです。

 

秀吉の重臣石田三成が、輝元の家臣児玉元兼が貞宗の脇差を所持していることを聞き付け、それを所望したことがあったようです。そのことを、秀吉自身に進言するものがあり、秀吉にそれを取り上げられそうになった輝元は、わざわざ朝鮮半島に出陣中の元兼を呼び戻し、早々に脇差を輝元に差し出すように命じています。

 

この時期の毛利氏にとって、朝鮮での軍役は、秀吉への最も重要な忠節の一つでした。それを差し置いてでも、急いで元兼を帰国させようとしたのは、秀吉と三成との板挟みになることを、輝元が避けたいと思ったためなのでしょう。輝元が大袈裟なのだといえば、それまでですが、秀吉や三成が、ことさらに刀に執心であったことを、輝元がよく承知し、不要な板挟みや軋轢を避けようとしたとも考えられます。このように考えると、なぜ輝元がこの「刀絵図」を必要としたのか、おぼろげながら想像できそうな気もします。