山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

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第443回

2019.05.10

写真は、鯉の滝昇りの絵です。写生画の大家として知られる円山応挙が描いたもので、写真は、三幅のうち中尊にあたる部分です。龍門を昇りきった鯉は龍になるという故事にちなんだ鯉の絵は、応挙が得意とした画題らしく、いくつか同じ構図のものがあるようですが、当館所蔵のものは出来映え、保存状況ともかなりよいと思われます。

 

本作品は、毛利家の伝来品としては比較的新しく、大正五年(一九一六)に、公爵毛利家の防府本邸(現毛利博物館)の完成を祝って献上されたものです。明治維新を勝ち抜き、かつての大名家でも最高位の公爵となった毛利家には、このように、明治維新後もなお、さまざまな形で美術品が集まり続けました。

 

「勝てば官軍」という言葉がありますが、毛利家にとっての明治維新はまさに薄氷を踏むような場面の連続でした。「三藩連合東上一件」によると、慶応三年(一八六七)九月ごろ、長州(萩)藩と水面下で盟約した薩摩(鹿児島)藩と芸州(広島)藩は、京都で天皇を掌中に収めたあと、蒸気船の力を活かして、一晩で三田尻から大坂湾に進出し、一挙に将軍徳川慶喜がいた大坂城を攻略する計画を立てていたようです。

 

結局この計画は、薩摩藩の三田尻到着が遅れたため、実施には至りませんでした。この後も薩摩藩の行動は遅れがちで、長州藩との連携は難しかったようです。薩摩藩のもたつきは、藩内の意見統一が遅れたためと説明されます。ただ、その後の協議では、挙兵に失敗した際には、藩主と藩兵の帰国・再東上が難しく、長州藩内での滞留を求めるなど、兵站面での不安を匂わせる発言も見られるので、そうした要因もあったのかもしれません。

 

幕末、幕府や藩の財政はどこも逼迫し、莫大な軍事費を負担できるような状況ではありませんでした。各藩がどうやって兵站を維持したのかは、不明な点が多いようです。