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第442回

2019.04.26

 写真は刀です。茎(なかご)には「備前州住長船兵衛尉国光作之」とあり、末備前の長船国光の作だとわかります。所伝では、山中鹿介所用とされ、刀身の表側には倶利伽羅龍の彫物が、裏には「佐々木大明神」の文字が彫り表されています。

 

 山中鹿介は、出雲国(島根県)の戦国大名尼子氏の一族とされています。尼子氏は、室町時代に出雲守護であった京極氏の一族で、近江国(滋賀県)の尼子の地を本拠にしたことから、尼子と名乗ったとされます。

 

 京極氏が出雲守護となると、ともに出雲に下ったようです。応仁の乱あたりを契機に、守護代として守護に代わって実質的に出雲国を支配するようになり、経久の代には名実ともに出雲の支配者となり、近隣諸国にも出兵して尼子氏の名を世にとどろかせたことはよく知られています。

 

 京極氏は、宇多天皇を祖とする源氏の一族で、いわゆる近江源氏と呼ばれる一族でした。彼らは佐々木と名乗り、佐々木神社を氏神として崇拝したので、山中鹿介もまた、その子孫として「佐々木大明神」と彫らせたのでしょう。

 

 尼子氏は、出雲国の太守となった後にも、出自の地でもある近江との関わりを強く意識していたようです。この刀の銘文もそうした意識が背景にあると思われます。

 

 戦国期に活躍した中国地方の武将たちの中には、鎌倉・南北朝期に関東などの東国から下ってきた武士団の子孫が多くいました。毛利氏や小早川氏・山内氏に代表されるように、彼らは、中国地方に定着してもなお、東国の地名に由来する名字を名乗り続けていました。これは、鎌倉御家人の流れを引くことを誇示することで、地元で根強く勢力を保つ、古代以来の勢力と対峙し、家を発展させるための一つの方策であったと考えられます。