山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

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第440回

2019.04.12

 写真は、春の毛利氏庭園を南側、海の方から眺めたものです。この庭園は、もともと公爵毛利家の本邸として、大正五年(一九一六)に完成した邸宅の主要部分が「毛利氏庭園」として、平成八年(一九九六)に国の名勝として指定されたものです。

 

 近代に作られた和風庭園ですが、江戸時代の大名庭園の流れをくんだ歴史的な趣や、自然の地形を巧みに活かした造形の妙、さらには瀬戸内の島なみや、中国山地を借景にうまく取り込んでいることが、近代和風庭園の精華であるとされたのです。

 

 指定面積は約二万坪、その広大さに目を奪われますが、内部に建てられた建造物の延床面積も千二百坪に及ぶのは、さすがは明治維新を主導した旧長州藩主毛利家ならではといったところでしょうか。

 

 この地を本邸とすることを定めたのは、明治二十三年(一八九〇)に定められた家憲によるものでした。この家憲は、明治憲法の発布にならって、旧大名華族の家政機構を整えさせて、華族を天皇制の藩屏とさせるためだったとされています。

 

 公爵毛利家の場合、後に家政協議人となる元家臣井上馨が、その選定に深く関わったようです。福田東亜氏によると、毛利家の本邸を山口県下に置くことについても、井上の意向が強く働いたといいます。

 

 また、博物館に残された図面類を見ると、当初は洋館が併設され、床面積も三千坪に及ぶ広大なものだったようです。しかし、この壮大な計画は、資金不足、家政運営の中心が東京に移るなどによって頓挫しました。時の当主毛利元昭は、そのあたりの事情を、規模を縮小する代わり、材料の質や最新の技術をつぎ込むことで補うつもりだったようです。結果的には、この先進的な発想が、この邸宅の評価を高める結果となったのです。