山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

お問い合わせはこちら

第437回

2019.03.22

 写真は、千利休から毛利輝元に贈られた茶杓(ちゃしゃく)です。茶杓は、茶事で抹茶の粉を掬う道具です。この茶杓は、竹で作られ、蟻腰(ありごし)・中節(なかぶし)の典型的な利休型の茶杓とされ、深い樋と、薄く掛けられた漆に特徴が見られるといいます。「一松」という銘が付けられ、毛利家伝来の茶道具のうち、最も著名なものの一つです。

 

 利休といえば、堺の商人でありながら、豊臣秀吉の側近として活躍し、秀吉の弟秀長と並ぶ実力者と評されていた人物です。輝元は、豊臣政権下でも徳川家康に次ぐ指折りの大大名として遇されていましたから、この茶杓も、おそらくは、利休が茶会に招いた輝元に、記念として贈ったものであろうと想像されます。

 

 ただ、輝元と利休との関係は明らかではありません。もともと輝元と秀吉は、西国の有力大名毛利氏の後継者と、畿内を制圧した大名織田信長の家臣、という立場で出会いました。当時奉行として京都にいた秀吉が、毛利氏に対する信長側の窓口となったのです。

 

 やがて、秀吉は毛利氏攻略の主担当に任じられ、以後数年にわたり、中国地方各地で、毛利氏と秀吉は交戦するようになりました。天正十年(一五八二)になると、秀吉有利の戦局は明白となり、毛利氏と秀吉との間で、幾度か停戦の交渉が試みられたようです。交渉がまとまる前、本能寺の変で信長が急死したことで戦争は停止されましたが、複雑な戦局の中で入り組んだ勢力圏を整理し、国境を画定できたのは、その三年後でした。

 

 この難しい交渉をまとめたのは、毛利氏側では主に安国寺恵瓊、秀吉側では秀吉の有力部将であった蜂須賀正勝と、中国地方の事情に明るい黒田孝高でした。両者は蜂須賀小六・黒田官兵衛の名で知られた秀吉配下の武将ですが、特に官兵衛は、以後も毛利氏と豊臣氏との橋渡し役としての活動が目立つようになります。