山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

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第436回

2019.03.15

 写真は、江戸時代後期の絵師松村景文が描いた「立雛図」です。立雛は、雛人形の源流に近い雛とされ、その素朴な姿が、今なお人気を保ち続けています。

 

 そもそも雛人形は、子どもが生まれた際、守りとして与えられた人形に端を発しているといいます。現在でも雛流しの行事が続けられているように、生まれたばかりの子どもに降りかかる災厄を一身に引き受けた人形は、一定の期間が過ぎると、役割を終えて適切に処分される習わしだったようです。しかし、小さな人形など、いわゆるままごと遊びとしての「ひいな遊び」の伝統と、愛着がわいた人形を捨てがたいという気持ちが重なることで、現在のように生涯を通じて大切にする雛人形が生まれたようです。

 

 医療などの科学が発達を遂げていなかった前近代、小さな子が無事育つこと、子どもが幸せな人生を送ること、その他立身出世や戦争での勝利、家の維持などに関しては、現代では想像ができないほど、神仏や迷信に頼るところが大きかったようです。

 

 毛利元就は、三人の息子に与えた、いわゆる「三子教訓状」の中で、自らが成功を収めた要因を神仏、とりわけ厳島神社の加護によるものと断じ、息子たちに、厳島を信仰することの重要性を訴えています。そのほかにも元就は、この書状の中で、日月を信じることの大切さや、念仏を唱えることの大切さを説いています。

 

 十四か条に及ぶ、長い教訓状のうち、後半はほぼ信仰について説かれているといっても過言ではないくらいです。前半で三人の協力こそが、何よりの力となると、理路整然と唱え、信仰は後半に回しているところが、さすが戦国でも一二を争う智将の面目躍如といったところですが、その元就でさえ、子どもたちに真剣に信心を奨めているところは、やはり元就も、信心にすがらざるを得ない中世の人間だと思わせるところです。