山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

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第434回

2019.03.01

 写真は、お雛さまの婚礼道具として作られた「雛道具」です。すべての道具が、黒々とした漆の上に金箔の蒔絵で、唐草と毛利家の家紋「沢瀉(おもだか)」の文様に統一された、大名毛利家ならではの、豪華なものです。

 

 蒔絵もさることながら、金具の一つ一つにも唐草文様が毛彫りされるなど、実際の調度と同じ工程で作られ、実際の婚礼道具の「雛形」として作られたことがよくわかります。

 

 婚礼道具の雛形とすれば、本来は、実家と嫁ぎ先の両家の家紋を入れるのが筋です。そのため、家紋から所用者を推測できるのです。ただ、毛利家の場合、幕末の藩主毛利敬親・元徳と二代にわたって、親族同士での婚姻を繰り返しましたので、家紋に違いはなく、この雛道具の所用者は、残念ながら誰か確定することができません。

 

 「血を濃く」し、一族の結束を固めるため、同族で婚姻することも珍しくはありませんでした。しかし、二代続けてというのは、奇異な感がぬぐえません。通常、前近代社会における婚姻は、すべて政略的で、家と家の結びつきを強め、両家の共存を図るものでした。

 

 敬親の実妹にあたる、十一代藩主毛利斉元の二女孝姫は、嘉永三年(一八五〇)伊予国(愛媛県)宇和島藩主伊達宗徳に嫁いでいます。時期から鑑みるに、関門海峡と、豊後水道を航行する外国船情報の共有を目指したと想定できます。

 

 この婚姻は、孝姫の死により、長く続きませんでした。しかし伊達宗徳は、その後、禁門の変により朝敵・幕敵とされ孤立した長州(萩)藩に、敬親・元徳父子の官職剥奪を伝えています。宗徳は、毛利家との縁が、自藩に不利となる状況でもなお、敢えて毛利家に好意を示し、繋がりを保とうとしたのでしょう。毛利家にとって、こうした繋がりを有していたことが、幕府に対抗し、生き延びることができた要因だったのかもしれません。