山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

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第431回

2019.02.08

mt毛利家190208立涌に蝶花文様打掛写真は、江戸時代の上流武家女性の正装とされた打掛です。紅の絹に、さまざまな色糸で、雲気の涌き立つ様子を表した立涌(たてわく)文様に、蝶や草花をあしらった華麗な衣裳です。袖を長くした振袖なので、未婚女性のものであることはまちがいないようですが、所用者はわかっていません。

 

衣裳としての様式や、保管されていた状況などから、江戸時代後期から明治時代初めにかけてのものだと思われますので、幕末の激動をくぐり抜けた逸品なのかもしれません。

 

幕末維新の動乱は、毛利家の女性たちにも大きな影響を与えました。江戸時代初期に制度化された参勤交代により、大名の正室と、後嗣である世子ならびにその室は、江戸住まいを義務づけられていました。そのため、大名家の正室には、結婚後夫の領国を訪れることなく、一生を江戸で過ごし、そのまま亡くなる場合も多かったようです。

 

田中誠二氏によると、文久二年(一八六二)に、幕府が参勤交代の制度を緩和すると、長州(萩)藩毛利家は、早々に「上々様方」とよばれた藩主の係累、特に藩主敬親の正室都美姫(とみひめ)と、世子元徳の正室銀姫の帰国を決定したといいます。

 

当時長州藩は、急進的な攘夷藩として、本拠を萩から山口へ移す「山口移鎮」など、攘夷の実現に向けて邁進していました。田中氏によると、長州藩では、不用となった江戸屋敷を解体し、その用材や金具などを、山口での御殿新築に用いようとしたようです。

 

江戸と国元との二重生活、なかでも江戸での出費は、藩財政にとってはかなりの負担だったようですから、こうした負担を削減し、来たるべき攘夷戦にすべてをつぎ込むための「上々様方」帰国であったと思われますが、それに伴い、都美姫や銀姫たちの衣裳や、雛人形をはじめとした諸道具もまた、江戸から長州に移されたものと思われます。