山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

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第430回

2019.02.01

mt毛利家190201腰巻写真は、「腰巻」という、上級武家の女性の夏の正装です。豪華な金の糸で斜線を組み合わせた襷文様に、紅や緑の色糸で丸い梅の文様を描いた豪華なものです。

 

この腰巻は、幕末の長州(萩)藩主毛利敬親の正室都美姫(とみひめ)所用のものです。都美姫は、十二代藩主毛利斉広(なりとお)の娘でしたが、斉広の養子として十三代藩主となった敬親の正室に迎えられた女性です。

 

そもそも前近代の婚姻は、家と家を結びつけ、互いの家を繁栄させるための、政略結婚が当たり前でした。そのため正室の役割は重要で、難しい政治情勢の下でも、いかに夫婦関係を円滑に保ち、両家を仲立ちできるか、子どもや親族との関係を円滑にできるかが求められました。

 

特に戦争での協力、すなわち同盟を最大の目的として婚姻を結ぶ武家の場合、その傾向は特に強く、正室の地位は高かったようです。毛利元就の子である、毛利隆元・吉川元春・小早川隆景は、いずれも側室をもちませんでした。隆景の場合、正室との間に子はいませんでしたが、側室を持つことなく、豊臣秀吉の親族秀秋と、元就の九男の秀包を養子に迎えています。もともと隆景は、沼田小早川家の婿養子でしたから、その点を重く考えたのでしょう。

 

結局、秀秋は備前・美作二州の大大名となりますが、嗣子なく早世したため、断絶したことはよく知られています。秀包もまた、関ヶ原合戦の直後早世しますが、その子は、毛利家の一門とされ、名字も「毛利」と変えましたので、「小早川」の名跡を継ぐ者はいなくなりました。

 

小早川家の家臣たちも、紆余曲折の結果、多くは毛利宗家に直接仕えたようですが、その過程で散り散りになった者も多く、鎌倉以来の名門小早川家は、名実ともに消滅しました。

 

隆景の妻は、隆景の死後も長命を保ちます。毛利氏の防長移封に従って山口の問田に移り、「問田大方」と呼ばれますが、実家小早川家の消滅を、どう感じていたのでしょうか。