山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

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第429回

2019.01.25

st毛利家190125梨地菊桐紋散蒔絵糸巻太刀拵_加工写真は、初代の長州(萩)藩主毛利秀就が、朝廷から拝領した「糸巻太刀拵(いとまきのたちこしらえ)」です。菊桐紋が金の蒔絵で描かれ、朝廷からの拝領品であることを示します。

 

秀就がこの太刀を拝領した寛永十一年(一六三四)は、支藩主であった毛利秀元・毛利就隆が、萩本藩からの自立を図りますが、それを未然に防ぐとともに、岩国吉川家の支藩昇格に失敗し、以後の江戸時代を通じての萩本藩と各支藩との関係が確立した年です。この太刀拵が、代々大切にすべき「御重代太刀」として、毛利家の正月飾りに加えられているのも、こうした特筆すべき出来事を、記憶として刻み込むためなのかもしれません。

 

毛利家の場合、岩国を除く、徳山・長府・清末の三家が支藩として認定されました。支藩主は「内証」として、毛利宗家から知行を与えられ、幕府から直接命令を受けるだけでなく、幕府に直接課役も果たし、本藩から軍事・司法・行財政の自立が認められていました。

 

十八世紀初頭には、萩本藩と徳山藩との間で対立が発生し、徳山藩が改易される事件が発生しました。また、経済拠点として重要性を増した下関の支配をめぐっては、ともに財政が苦しかった萩本藩と長府藩との間に、水面下での確執が存在したようです。形の上では、萩本藩より知行を与えられているとはいえ、幕府と直結し、実際の行財政面で本藩から一定の自立を容認されている支藩との関係は、必ずしも一枚岩にはならないことも多かったようです。

 

また、支藩と認められなかったものの、軍事や司法・行財政では、萩本藩からの自立が認められていた岩国吉川家と、萩本藩との関係も、必ずしも安定したものではありませんでした。

 

幕末に萩本藩を率い、これまでの普請役だけでなく、浦賀や兵庫の海防など、幕府から新たで困難な課役を賦課された本藩主毛利敬親にとって、ともすれば負担を忌避したがる支藩の協力を得、防長を一丸にできるかは、とりわけ重要な課題だったようです。