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第428回

2019.01.18

mt毛利家190118正月飾り写真は、毛利家の「正月飾り」とされているものです。毛利元就ゆかりの「御佳例吉甲冑」「日の丸軍扇」に、初代藩主毛利秀就拝領の「御重代太刀」とあわせて、向かって左前、三方に載せて並べられているのが、「御佳例盃」です。

 

かなり大きな木盃ですが、惣体は朱塗り、内側には金泥を塗った、正月にふさわしい見た目の盃です。この盃に注がれた酒を、毛利家の重臣福原貞俊が飲み干した、との逸話があります。

 

この話がどうめでたいのか、よくわかりませんが、逸話に登場する福原貞俊は、毛利元就亡きあと、「両川」と呼ばれた吉川元春・小早川隆景とともに、毛利家を率いた元就の孫輝元を支えた重臣中の重臣でした。もともと福原家は、南北朝時代末期に、安芸国(広島県)吉田盆地内の福原村を分与されて成立した、毛利家の庶家でした。同じく山手村を分与された広内が、一族の所領麻原郷を蚕食して勢力を拡大し、惣領家「吉田殿」の地位を脅かしたのに対して、福原村を本拠とした広世は、惣領家に協力することが多かったようです。

 

元就の父弘元は、福原広俊の娘を妻とし、その子元就が、次男でありながら家督を継承できたのも、従兄弟の福原広俊(元就祖父の広俊の孫)の協力によるものでした。

 

広俊の子貞俊が、輝元を支えたのは、前述の通りです。また、貞俊の孫広俊が、吉川広家と協力して、関ヶ原合戦の当日における毛利軍の参戦を封じたことは、よく知られています。これを機に広俊は、徳川氏との折衝役を輝元から命じられ、萩城の築城や、江戸に赴いた輝元の嫡男秀就の補佐など、関ヶ原合戦後の困難な時期に、当主輝元を支えた一の重臣となりました。

 

それらの功績が評価されたのでしょう。福原家は、元就以前に別れた庶家のうち、唯一近世以降も一門に準じる、いわゆる永代家老家とされたのです。幕末の当主元僴が、藩主に代わって切腹したのは、歴史の偶然とはいえ、福原家の歴史的役割がよく現れた事件だったのです。