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第427回

2019.01.11

mt毛利家190111御佳例吉甲冑写真は、毛利家の正月飾りの中心に据えられる「御佳例吉甲冑(ごかれいきちかっちゅう)」です。兜は福々しい頭巾形(ずきんなり)、胴は全体を朱に塗り、金で子孫繁栄を願う瓢箪唐草(ひょうたんからくさ)が描かれた、正月にふさわしい、めでたい意匠の甲冑です。

 

しかも、毛利家を飛躍させた元就が使用したとされ、新年を寿ぐ正月飾りにふさわしい所伝も有しているのです。ただ、胴は明らかに桃山風、しかも少年用です。兜は大人用ですが、やはり桃山時代のもので、様式面ではとうてい元就のものとは言い難いようです。しかも道具帳には「御佳例吉兜」と記され、胴と兜は、本来別々のものであったようです。

 

おそらく、毛利家伝来の武具のうちでも、それなりに古く、意匠もめでたいものが、何時の頃からか元就のものとされ、正月飾りにふさわしいと考えられるようになったのでしょう。

 

江戸時代の長州(萩)藩にとって、元就は、格別の存在だったようです。元治元年(一八六四)七月、藩主毛利敬親・元徳父子は、京都に向かう藩兵に対して、軍事上の規律を示した「軍令状」を、家老の国司親相(信濃)に下しています。これは、幕府が、禁門の変における長州藩を、有罪と断罪する根拠として、諸大名に触れたことでも知られているものです。

 

その内容は、天文二十二年(一五五三)に毛利元就・隆元父子が定めた「軍法書」を、写し取り、毛利家の「万古不易」の法としたものです。元就の軍法書は、従来の用兵を改め、家中の恣意でなく、毛利家当主の号令一下に戦闘を行うよう定めた、当時としては画期的な法令でした。しかし、三百年を経た幕末に、どれほど有効であったか、定かではありません。

 

元就晩年から江戸時代初頭にかけては、鉄砲の普及や大名権力の強大化により、大きく軍事編制が変えられた時代でした。幕末に元就の軍法書が持ち出される意味については、近世の軍事体制の変遷を、よく精査した上で考えなくてはならないように思われます。