山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

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第426回

2018.12.28

毛利家181221半5_cs6写真は、文久三年(一八六三)正月十七日に出された、孝明天皇の宣旨です。宣旨とは、天皇の命を写した書類で、これは、長州(萩)藩主の毛利敬親を参議に任じたものです。

 

この日、親類の鷹司家が用意した束帯を身にまとって参内した敬親は、小御所にて天皇から御酒と糸巻太刀を下され、参議に任じられました。この地位は、毛利家にとっては、豊臣家の大老を務めた輝元以来で、破格の出世でした。

 

これは、前年以来、敬親が、攘夷実現のため奔走したことに対する褒賞であったと考えられます。田中誠二氏により、幕府に対する強硬な路線が、家老職にあった益田親施(ちかのぶ)により主導されていたことが明らかにされています。

 

長州藩では、国元の行財政を統括する家老職である当職と、藩主に近侍して諸政を統括する家老職である当役が、藩政を主導していました。この時期の人事をみると、この当職と当役を、親施と交互に務めたのが、福原元僴(もとたけ)でした。藩主係累の江戸からの帰国や、山口移鎮など、この時期の攘夷にむけた重要な施策は、益田親施・福原元僴が、まさに敬親の両翼として進めた政策であったと考えられます。福原氏は室町時代以来、毛利宗家を支えてきた一族でしたが、八月十八日の政変により京都を逐われた長州藩が、復権を賭けて藩兵を率いて上京し、御所周辺で幕府側の諸兵と戦火を交えた禁門の変でも一方の将を務めたといいます。

 

元僴自身は、出陣に先立ち、「太平記」の桜井の別れの部分と思しき一節を写して嗣子に与え、いかなる状況であったとしても毛利宗家を支えるように諭していますから、既に上京戦の敗北を予感していた可能性がありますが、戦後その責を問われて切腹を命じられました。ただそれは、この一戦の指揮よりも、益田親施同様、攘夷への転向から禁門の変に至るまでの、一連の長州藩の政策への責任を問われたと考えた方が良いように思われます。