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第425回

2018.12.21

mt毛利家181221毛利敬親具足祝図写真は、文久四年(元治元年・一八六四)正月の具足祝いを描いた「毛利敬親具足祝図」です。

 

具足祝いとは、長州(萩)藩の正月行事の一つで、正月十一日に、藩主以下重臣が実際に甲冑を着て集まるものです。この絵は、明治時代になってから、その行事に参加した河北一が、その記憶を頼りに、兼重暗香に描かせ、毛利家に献上したものです。

 

この年の具足祝いは、前年八月十八日の政変で、攘夷戦敗北の責を問われて京都を逐われた長州藩が、いかに名誉を回復させるか、激しく意見が交わされるなかで行われたといいます。行事に先立つ三日には、藩主敬親自らが藩士の軽挙妄動を慎むようにとの御意を示すなど、藩内が、ずいぶんと騒然とした雰囲気であったことはまちがいないようです。

 

この絵の右側三人目に描かれているのが、益田親施(ちかのぶ)です。このあと二月に、毛利家の親族有栖川宮家の家司を務めていた粟津義風が、敬親に対して京都の情勢、すなわち朝廷の主張、幕府の意図、政局の鍵を握っていた薩摩藩の意向を伝え、名誉回復のために長州藩がとるべき方策を献策していますが、そこには、 支藩の清末藩主毛利元純や益田親施を使者として上京させると、却って話がこじれるので、ふさわしくないと記されています。

 

益田親施は、右衛門介の通称で知られています。田中誠二氏により、親施の父元宣が、藩主敬親の天保財政改革を主導したことが明らかにされていますが、元宣の後を引き継いだ親施もまた、藩政を主導したといい、参勤交代の緩和による藩主正室以下の帰国、江戸藩邸の縮小に伴う麻布穴蔵銀の開封と横浜での軍艦買い付け、続く山口移鎮は、親施が主導したそうです。

 

粟津義風の助言によると、親施が強硬派であったことは、京都にも知れ渡っていたのでしょう。禁門の変後に親施が、藩主敬親に代わってその責を問われ、死罪とされたのは、こうした朝廷・幕府のこれまでの長州藩政に対する認識が、背景にあったと思われます。