山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

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第424回

2018.12.17

Print写真は、文久三年(一八六三)の正月十七日に、長州(萩)藩主毛利敬親が、宮中で孝明天皇から拝領した「天盃(てんぱい)」です。「天盃」とは、天皇から下される御酒を注ぐ盃のことで、これは素焼きの土器でつくられた簡素なもので、何度も使用されるものではなく、その場限りのものだったようです。

『もりのしげり』などによれば、この日敬親は、鷹司家から贈られた束帯を身につけ、小御所で天皇に拝謁したのち、御酒と糸巻太刀(いとまきのたち)を下され、参議に任じられたといいます。敬親の参内や、宮中での振舞に関しては、公家の鷹司家が関与していたようです。

鷹司家とは、宮中で大きな勢力を占めていた公家藤原氏の本流、摂家と呼ばれる家の一つでした。もともと近衛家から分かれた家で、中世には必ずしも主流ではなかったようです。しかし、江戸時代の中ごろ、閑院宮家より養子として入った鷹司輔平が、同じく閑院宮家から皇位を継いだ光格天皇が甥にあたることから、関白として力をもったようです。

長州藩の七代藩主毛利重就が、その娘惟保君(いおぎみ)を輔平の正室としたことから、毛利家と鷹司家との関係が親密化したようです。重就の嫡孫にあたる九代藩主斉房には、鷹司家の血を引く幸姫が、有栖川宮家から嫁いでいますし、田中誠二氏によると、鷹司家には長州藩からかなりの額の資金が援助されていたようです。

文久年間の公武合体運動において、長州藩は、先行する薩摩藩と競うように周旋の実を挙げようとしています。これは、大名を競わせて、意向を幕府に認めさせようとする朝廷の戦略でした。ですが同時に、薩摩藩の島津氏が、ながらく近衛家と密接な関係をもち、近衛家を窓口として朝廷に進出したことを鑑みるならば、宮中内部における、藤原氏の氏長者、すなわち摂家筆頭をめぐる鷹司家と近衛家との競合も、その背景にあったのかもしれません。