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第423回

2018.12.07

毛利家181130半5_cs6写真は、文久四年(一八六四)の正月三日に、長州(萩)藩主毛利敬親が記した訓示の一部です。冒頭から、防長二州はいかようになろうとも、「皇国」すなわち日本のために尽くす所存である、と述べ、そのことを他者が理解しないのは、自らの行いが未熟であるためだと論じ、こうした敬親自身の意向を汲んで、無謀で驕慢な行為は行わないように訴えています。

 

前年の八月十八日、長州藩は、攘夷戦の強行と敗北の責を問われ、孝明天皇の承諾を得た、会津・薩摩両藩、ならびに幕府によって京都を逐われました。その後十一月には、釈明のための使節を京都に派遣しましたが、敗北により日本を危機に陥れたこと、廷臣である三条実美ら七卿を無断で長州に誘引したことなどに、激怒していた孝明天皇は、長州藩の釈明を受け入れてはいませんでした。

 

こうした、孝明天皇の頑なな姿勢を、天皇を取り巻く君側の奸の仕業だと考えた長州藩では、軍勢を率いて上京し、歎願に努めるとともに、その歎願が受け入れられないときは、実力を行使してでも、長州藩の無実を認めさせようとする意見が高まっていたとされます。

 

この「諭書」は、そうした藩内の状況をよくふまえた敬親が、自ら筆をとって家臣に与えたものだと思われます。

 

これまでこの「諭書」は、防長二州、すなわち長州藩を犠牲にしてでも、「皇国」すなわち日本のために尽くす、という冒頭が特に重視されてきました。ただ、文章の分量からいえば、後半の、この事態が自らの未熟ゆえに起きた出来事であること、そしてそれをよく理解して無謀な行動は行わないこと、とする部分の方が長く、はたしてどちらがこの「諭書」の主旨か、判断に迷うところです。敬親がなぜこのような曖昧な訓示を行わざるを得なかったのか、いろいろと考えてみる必要がありそうです。