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第422回

2018.11.30

mt毛利家181130志道広良言上状_2018国宝写真は、毛利家の老臣志道広良(しじひろよし)が、毛利家の当主毛利隆元に提出した「言上状」です。短いものですが、隆元の父元就からの書状を受け取った広良が、その書状を隆元に渡すにあたり、自らの所見を書き添えたものです。

 

岸田裕之氏によると、このときの元就の書状は、元就から家督を譲られたばかりの隆元に対する、新当主として果たすべき役割を述べたものでした。郡山合戦や出雲国進攻、その後の芸備両国での熾烈な戦闘などに対する、恩賞が十分でないことを認識していた元就は、家督を隆元に譲って、人心の一新を図りました。しかし、山口での人質生活の後、大内義隆の影響を受け「山口がかり」と元就が呼ぶほど、山口の文化的な生活にかぶれてしまった隆元は、自らの置かれた立場を理解できていませんでした。恩賞不足に対する家臣団の不満を、危機と考える元就には、それが看過できなかったというのです。

 

一方で広良は、恣意的に振る舞い、「あれハいや、是ハいや」と公役を逃れようとする、有力家臣に対し、奉公の基準を定めて、厳しく臨むことを、隆元に進言していました。

 

隆元を諫めてほしいと、元就からの依頼を受けた広良は、元就の書状を隆元にそのまま渡すとともに、家臣の賞罰を厳格にすること、ただその時、できるだけ賞を厚く、罰を薄くすることが支配のこつだと書き添えています。また、君臣の間柄を船と水にたとえて、水は船をよく浮かべるが、船は水がなくては進めないと、隆元を諭しました。

 

興元以来、幸松丸・元就三代にわたり、毛利氏の執権として、毛利氏を支えてきた広良は、その経験と、元就の意向をふまえて、毛利氏当主と家臣との主従関係を、御恩と奉公とが釣り合った、双務的なものにしなくてはならないと考えていたようです。元就と広良は、二人三脚で、若い当主隆元を、新たな時代の毛利氏当主に育て上げようとしていたのです。