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第419回

2018.11.09

mr毛利家181109三子教訓状写真は、毛利元就が長男の隆元、次男の吉川元春、三男の小早川隆景に宛てた書状です。後世、毛利家結束の象徴として知られることから「三子教訓状」と呼ばれる著名なものです。

 

元就が筆まめだったことはつとに知られています。現在残されている資料を見る限りでは、天文十五年(一五四六)、家督を隆元に譲るころから、特に子どもたちに盛んに手紙を書くようになったようです。家を譲ったとはいえ、まだまだ未熟な隆元を補佐し、当主として一人前になるように教育するつもりだったのでしょう。その後、弟の元春・隆景も相次いで他家の養子となりましたので、それぞれの立場も踏まえながら、毛利家を盛り立てるよう、教育するつもりであれやこれやと指示を出していたようです。

 

この「三子教訓状」は、弘治三年(一五五七)十一月、大内氏を滅ぼして、いったんは帰国した元就・隆元父子が、防長両国で発生した反毛利氏の一揆を殲滅するため、再び出陣した周防国内で記されたものです。領国の拡張が、却って毛利氏の危機につながると考えた元就は、三人に改めて、現状を認識し、その上で結束して毛利家を支えるように訴えたのです。

 

この元就渾身の手紙に対して、同陣していた隆元は、よく事情を理解していたのでしょう。元就の書状を受け取った翌日には、もう返書をしたためています。兄弟でよく話し合ってほしかった元就としては、この対応がまた不満の素となり、再考を求める書状を出しています。

 

一見すると順風満帆にもかかわらず、家の内外に大きな問題を抱えていた、若輩の当主隆元にとって、偉大な「大殿」元就の意向にいかに沿うかが重要だったのです。次から次へと問題を指摘し、解決策を求める元就の手紙は、隆元にとっては「守(まもり)」でもありましたが、重圧でもあったようです。時にはこうした、元就の意向とも食い違いを見せますが、元就の教育に真剣に向き合った隆元は、長命であればひとかどの武将に成長していたに相違ありません。